新刊書架

担当編集者制ならびに通信教室をご利用になったかたがたの新作です。
添田 健一 花詩箋 400字詰原稿用紙
約39枚
著者敬白/都内中央線沿線の西荻に住んでいます。都内も花見の名所が多いので、いまから楽しみにしております。
著者ブログ/「西荻看書詩巻
中国、中唐の世。百花によそわれる晩春の成都を舞台に、高名な詩人の男女のつかの間のめぐりあいと交流とを、みずみずしい筆致でしっとり綴った佳品。
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作品ハイライト

 晩春の成都は百花によそわれる。浣花渓(かんかけい)にかかる橋のなかほどからは、岸辺のたかひくに植えられた紅白の梅がたなびく春霞に煙るようすを一望にできた。対岸に目を向ければ、際沿いに植えられた李樹の白い花穂が揺れている。ところどころ杏の淡紅も見受けられる。低くには海棠(かいどう)のつやめく桃紅色。春風がそよぐたびに色とりどりの無数の花びらが江上に舞い散り、水面を埋めつくさんばかりに彩ってゆく。浮かんでは流れゆく落花のひしめきは錦画のごとし。目をこらせば、水面すれすれには魚の背が青さをのぞかせて蓮の葉を揺らしている。岸辺には餌をもとめてにぎやかに鳴く鴛鴦(おしどり)の群れ。江上では柳の緑樹を背につがいの燕が滑るようにしてななめに飛びかいゆく。風音とともに柳の白い綿毛である柳絮(りゅうじょ)が雪のごとくに舞う。江(かわ)は百花でしきつめられた錦を抱きかかえながら流れゆく。暮れゆく春の浣花渓は名がしめすごとくに花を浣(あら)う渓(たにま)であった。

  春教風景駐仙霞
  水面魚身總帶花
  人世不思靈卉異
  競將紅纈染輕沙

  春は暖かな風とうららかな陽射しをして 渓に海棠の花霞をとどまらせ
  清らかな水のなかを泳ぐ魚たちに花模様を帯びさせる
  ひとびとは花木の霊妙たるわざに気づいていないのでしょうか
  競いあうように 岸辺の白浜に赤いしぼり染めを干しています

 万里橋の西にある薛濤(せつとう)の邸(やしき)では、京師(みやこ)からやってきたばかりの監察御史を迎えるにあたって十日も前から上へ下への大さわぎになっていた。あるじの薛濤はすすんで庭の隅から隅まで、邸じゅうの室という室を見てまわり、厨にもはいり、食膳に出す品をみずからあらためていた。されど、厨を出るやいなや歩みをとめる。側仕えの楓娘子(ふうじょうし)をかたわらに呼び寄せて、耳もとになにごとかをささやく。ほどなくして元御史が見えようかという折りも折りである。


新刊書架
サクラギコウ 机の上の落書き 400字詰原稿用紙
約36枚
著者敬白/「生きること。私の創作は、結局はこの部分に回帰するのではないかと思います。人の生き様、すなわち『生』のエネルギーについて熱く語りたい。まだまだ未熟者ですが、日々精進、頑張ります。」
『だれかたすけて』。その落書きを目にした瞬間から、“僕”の内側で何かが大きく変わりはじめた。元ひきこもりの青年と将来の道に疑問を抱く医大生が織りなす心の軌跡。
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作品冒頭

 僕の仕事を一言でいうならば、机の上の落書きを消すこと。
 講義室の机の上には、いつも不思議な空間が広がっていた。

 僕は勤めている清掃会社から派遣され、今年の四月から、医学部医学科校舎で清掃の仕事をしている。大学とは一生縁がないと思っていた僕が、まさかこんな形で大学と関わることになるなんて。つくづく世の中はわからないものだとぼんやり思う。
 六階建ての校舎のすべてのトイレを毎日掃除し、曜日によって決められた廊下や階段を掃除する。そして一週間に一回ずつ、すべての講義室を掃除するのも大切な仕事のひとつだ。講義室の机はいくらぴかぴかに磨いても、一週間たつといつの間にかたくさんの落書きが書きこまれている。あたかも撲滅させたはずの落書きというウイルスが少しだけ生き残っていて、一週間のうちに爆発的な勢いで増殖してしまったかのように。
 例えば、魔法の杖を持ったかわいらしいクマのイラスト、あみだくじ(ちなみにアタリには『進級』という字が書いてある)、口に出しては言えないような恥ずかしい単語の数々、『リアルポケモン』という文字の横に描かれた、本物そっくりのネズミ――。
 そんな落書きを目にするたび、僕は途方にくれる。たくさんの落書きを前に、たったひとりぽつんと立ちつくす。けれど僕は、やがてゆっくりと落書きを消し始めるのだ。それが僕の仕事であり、僕のすべてだったから。
 
 その日、僕が向かったのは最上階にある講義室だった。六月も下旬、肌にまといつくようなじめじめとした日で、朝からどんよりとした雲がたち込めていた。部屋のドアを開けると、むっとした熱気が押し寄せてくる。ついさっきまで授業をやっていたのだろうか。大勢の人間の汗や体臭が混じったすっぱいような匂いは、正直気持ち悪い。
 講義室中の窓を全開にしようと足を一歩踏み入れて、けれど僕はぎくりとして立ち止まった。なんと部屋の中に女の子がまだひとり、残っていたのだ。
 女の子は窓際の一番後ろの席に座っていた。机の上にはノートや教科書を広げ、手にはシャープペンシルを握っている。肩まで伸びたふわふわの髪、大きな目がまん丸になって、突然講義室に入ってきた僕を見て驚いている。心なしかその瞳が潤んでいるように見えた。
 と、突然、僕は背中を押された。入り口で立ち止まったままの僕を押しのけるようにして、一緒にチームを組むおばさんたちがずかずかと講義室に乗り込んできたのだ。
 すると女の子はようやく我に返ったのか、弾かれたように立ち上がった。慌ててノートをとじ、教科書をまとめる。それらを胸に抱きかかえ、小走りに講義室を飛び出す。女の子とすれ違いざま、僕は少しだけ視線をそらしてうつむいた。彼女は小柄で、僕の肩ぐらいの高さしかなかった。そして彼女の去った後には、ふわりとした甘い香りだけが残った。
 まるで夢のような一瞬の出来事。けれど僕は頭を軽く振ることで、その夢を追いやった。そして何事もなかったかのように、いつもの作業に取り掛かった。
 だが、すぐに僕の脳裏にその女の子の顔がちらちらと浮かんだ。なぜだろう。忘れようとしてもなぜか心に引っかかる。しばらく考えて、僕はああと納得した。そう、なにかに似ていると思ったら、記憶のなかの子ウサギにそっくりだったのだ。

新刊書架
南条 武都 フレールの竜 400字詰原稿用紙
約46枚
著者敬白/長い時の中ではぐくまれる思い。人が踏み入れない世界に棲むもの達の、息づかいを感じていただければと思います。
著者HP/「南通り
その竜は孤独ではなかった……。伝説の赤竜を軸に過去、現在、情念が交錯する。緻密な筆致で描く、リアルで叙情的なドラゴン像。ファンタジーの王道を往く珠玉小説。
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作品冒頭

 その森では、木々が葉を茂らせた枝を重くもたげ、地面は草や苔に厚く覆われていた。
 獣道しか見当たらないこの未開の地を、男が二人、歩いていく。彼らは鎧に身を包み、剣で草を切り払い、先へ進んでいた。
 森は静かだった。天をつく木々が空を埋め尽くし、小鳥が軽やかな歌を紡ぐ美しい森を、男達は道を急ぐ。

 男達は、この森の西側にある村からやってきた。
 古くより禁忌とされてきたこの森に入ってほしいと彼らに依頼してきたのは、ほかならぬ、森の番人を勤める村長だった。
『あんた方の腕を見込んで、頼み事をしたい』
 食堂で昼食をとっていたところへやってきた村長は、そう切り出した。最初は何の気なく聞いていた男達は、しかし村長の話が進むにつれて、身を乗り出していた。
 村長の話はこうだ。
 村の東には、大昔から、大陸のほとんどを覆っている広大な大森林がある。
 この大森林に隣接した所に住む村の人々は、森の恵みに感謝と畏敬の念を捧げ、心ない人間の手でむやみに森を荒らされぬよう、村長が代々森の番人となってこの場所を守ってきた。
 しかし、森の真の番人と認められているのは、これもまた人の記憶には残されていないほどの永い時を、森と共にすごしてきた赤竜だった。
『見上げるほど巨大で、燃え上がる炎のような膚(はだ)の、美しい竜です。この村はずうっと、あの赤竜を守護神とあがめて来ました。あの赤竜がいるからこそ、森は今ある姿を保つことができるのです』
『その赤竜を見つけてほしいっていうのは、どういう了見だ?』
 男の一人が問うと、表情に畏敬の念を浮かべていた村長は、顔を曇らせた。
 彼が言うには、赤竜が全くその姿を見せなくなってしまったのだそうだ。以前なら一週間に二、三度、村の上空を飛んでいたし、森の奥深くから地面を揺るがすような咆哮が聞こえたものだが、ここしばらく、その気配も無い。
 赤竜に何か起きたのか。よそへ移動したのか。それとも、他に理由があるのか。
 心のよりどころとして赤竜を慕っていた村人達は、かつてない事に日々不安を募らせていた。実際どういった事になっているのかを確認しようにも、村人達は赤竜の聖域たる森に足を踏み入れる事を恐れるし、森の中に生息する獣達と渡り合う技術もない。
 この村に滞在して数日。男達はすでに、家畜を食い荒らす狼や、森に巣食う盗賊たちの退治などの依頼をこなして、その技量を示し、村人達の信頼を勝ち得ている。
 それ故に村長は、村の一大事に関わるその問題を、彼らに託そうと決心したのだった。

新刊書架
あさ 椿姫 400字詰原稿用紙
約42枚
著者敬白/常に読みやすいものを目指しています。流れるような文の中に、少しでも何か感じるものを見つけて戴ければ幸せです。
著者HP/「とらねこの執務室
禍々しく陰湿な“蔭”に侵蝕されつつある領地に、三毛猫を供にした若き絵師が現れた。領主の失踪、椿の変容という怪事件の裏に潜む宿命の因縁を知り、領主の娘とともに果敢に流麗に運命に挑む。
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作品冒頭

       序

 彼は、どこまでも貪欲で、どこまでも愚直だった。

 林を走る獣道の行き止まり、高い木に囲まれるようにして立つものがあった。背が小さく、葉はまばらで艶も無く、いかにも貧弱な一本の椿。
 木も草も、それを避けるかのように離れて生えており、椿の周りには何も無い。故意に広場を作ったかのような光景は、林から椿が仲間はずれにされているようにすら見える。
 その細い幹を、慈しむように撫でる腕があった。それもお世辞にもたくましいと言えない、骨と皮と筋だけのもの。
 腕の主は、ただでさえ高いとは言えない背丈に猫のように背を丸めているため、更に体が小さく見える。髪は結っていた紐が緩み、ほつれが酷くみすぼらしい。関節が浮きで、目と足と手だけが異様に大きい。
「わしがお前なら、もっと大きくなるになあ」
 奇妙な男は、くぐもった声を上げる。撫で続ける手は震え、口は忙しく開閉している。開くと、黄色い歯が覗いた。
「周りなんぞ省みず、綺麗な花を咲かせるになあ」
 梢を見上げる真ん丸い目玉からは、涙が溢れていた。

 彼は、魅せられてもいたのだった。


       一

 林の奥から、黒い靄のようなものが流れてきている。それは今や、西の里の半分を覆おうとしていた。
「お父様、お母様……」
 半年ほど前に身罷った母親。
 一月ほど前に姿を消した父親。
 目の前から父がいなくなって程なくして発生した陰湿な陰は、彼女にしか見えていないらしい。
 そのどれもこれもが、細い肩には重過ぎる事態だった。自身は強くないと叫びたい。民を捨ててでも、ここから逃げ出してしまいたい。
 幾度と無く過ぎる思いとは裏腹に、この土地に身を置き続ける理由があった。それを切り捨てようと考えただけで、心の臓が張り裂けそうになる。
 二つの本当を胸の内に秘めながら、気を張る日々は続いてきた。出るものは、溜め息と涙と……。
「助けて……」
 いつもは行き場の無い弱音も、今日は応えるものがいた。隆子の足元で見上げている、つぶらな瞳をした三毛猫。いつの間に傍らに来たのだろう。
 耳を伏せ、こちらの表情を窺う若い猫。ひげが垂れ下がった様は情けなく、だからこそ可愛らしくも見える。

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mayu-ge 終わりの食卓 400字詰原稿用紙
約76枚
著者敬白/人の心を描く楽しさと難しさを存分に味わいました。一場面でも登場人物たちと同じ視点に立って貰えれば嬉しいです。
著者HP/「言葉の欠片
死を迎えんとする者の最期の晩餐が見える――そんな不思議な能力を持つ男女が出会った瞬間、運命の歪みが始まった。合わせ鏡の迷宮が待ち受けるのは、生か死か……。
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作品冒頭

       プロローグ


 もしも もうすぐ死ぬとしたら あなたは 最後に 何を 食べたい?
 そんな、くだらない質問を、俺は笑えない。

 彼女の存在に気づいたのは、隣席の坂口の一言だった。
「あれ、経理に新しい子入ったんだな」
 言葉につられて目を向けた。
 雑居ビルの一室を借りた狭いオフィスは、各部署が簡単な仕切りで区切られているだけだ。俺の営業一課と経理課は隣同士で、机の位置によっては互いの姿がよく見える。
 いまどき珍しい黒く艶やかな髪の大人しそうな女性が、やや緊張した面持ちで座っていた。それが、彼女だった。
 朝礼で名前を知った。東堂沙紀《とうどうさき》。
 所長に手招きをされて社員たちの前に出た彼女は、小さな声でうつむき加減に自己紹介を始めた。
 俺は、その姿をぼんやりと眺めながら、頭の中では今日一日の予定を考えていた。べつに途中入社の女性が珍しいわけではないし、坂口のように女を品定めする趣味があるわけでもない。はっきりいって、自己紹介など俺にとってはどうでもいい事だったのだ。
 挨拶を終え、頭を下げた沙紀の肩から髪がさらりとこぼれ落ちた。他の社員たちに合わせて力のない拍手をしていた俺は、思わずその髪に見とれてしまった。ゆっくりと彼女が顔を上げる。何気なく視線が合う。
 その瞬間。
 ぞくり、と背筋に冷たいものが走り、息を呑んだ。
 まるで映画を見ているように、頭の中に一つの映像が浮かび上がったのだ。
 沙紀が、食事を取っている。白く大きな皿を前にして、ゆっくりとした動作でフォークに絡めたパスタを口に運んでいる。
 凍りつく俺に、彼女はかすかに笑った。
「おい、熊谷。どうした?」
 隣に立っていた坂口が、脇腹をつついてきた。我に返り、慌てて何でもないと首を振る。
 視線を戻すと、彼女はすでに社員の中に紛れ込んでいた。所長の一声に、社員たちがばらばらと席に戻ってゆく。
 俺は、奥歯をきつく噛みしめた。
 あの映像。そうだ。彼女は――東堂沙紀は。
 近いうちに、必ず、死ぬ……。

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七海つかり 天使の視界 400字詰原稿用紙
約68枚
著者敬白/死者の思いは、生者が知ることはできない。けれど、知りたいと願い続けるその先に答えがある……といいなあと思っています。
著者HP/「PLASEBO55
「――こいつを、頼むよ」。それが、梅治の最期のことばだった。形見の白鞘の刀を手に、春枇は猫又の柚とともに仇討ちの旅に出た。伝奇小説と剣豪小説の奇跡的な融合。大胆さと繊細さに息を呑む傑作! 【ダウンロード】

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作品冒頭

 1

 逢魔が時。
 春枇はさらしをほどく手を止めて日の沈む方を見る。故郷の村も、親友の墓も、はるか遠くというわけではない。竹越の夕日までの距離と比べればひどく近く、遠く感じるのは自分の心のせいだ。
「春枇(はるび)さま。竹林一帯、封じましたけれど」
 足下で控えめな声があがる。二股に分かれたしっぽを左右にゆったりと振る姿は、物の怪、猫又。柚(ゆう)という名前を持つが、春枇がつけたものだ。
「これで邪魔は入らない。今日のうちに決着をつけよう」
「助けも入りません」
「玄武も逃げられない」
 春枇は白鞘に収められた刀を着物の帯に差す。柚はもの言いたげに春枇を見上げていたが、結局うつむいて「はい」と答えた。
「覚悟の上だ。助太刀はいらない」
「わたくしがおります」
 柚の固い声に春枇はわずかに表情をゆるめ、深く頷く。それから左腕にまかれたさらしを取り去った。現れた刺青の上から、左の腕を握りしめる。
 刺青ではない。黒に近い単色で肌に刻まれるそれは起請陣と呼ばれる禁忌の法だ。狩人の証。梵字に似た数個の文字と、文字を繋ぐ複数の曲線とで成り立ち、個に唯一無二の形を持つという。魂の形を平面で表したものと六百年以上前の書物にも記録があるが、それを交換することで相手を使役しようという考えが生まれたのはせいぜい八十年前のことだ。
 物の怪を退けるには、僧の調伏法を除けば、起請陣を用いて物の怪を使役する他はない。けれど起請陣は物の怪と運命をともにする危険を伴う。使役する物の怪が傷つけば、主である狩人も傷を負う。狩人が死ねば物の怪も死ぬ。それだけの危険を冒しても、退治しなければならない。
 春枇は、深く吸い込んだ息を一度腹にためる。
「いくぞ」
 物の怪退治の始まりだ。

 2

 そもそも物の怪の「もの」とは霊のことだ。善も悪もない。それが悪意を持つようになると、百の害ありと言われる物の怪となる。取り憑き、呪い、喰らい、疫病をはやらせるなど、物の怪の害を御するためなら禁忌を犯すこともやむなしという考えは、いずれでてくる事だったのだろう。
「いないな。玄武のやつ」
 春枇は竹の間を慎重に歩く。竹と竹の間は両手を広げて歩けるほどだが、日が落ちてからは五、六本先の竹の影に人がいても見逃してしまいそうだ。柚が小刻みに耳を動かしながら足下を行く。
「結界は破られていませんから、どこかにはいると思いますが」
「探すとなると、広いな」
 春枇は一度足を止めると、ぐるりとあたりを見回した。竹と、竹の影とが薄暗い闇の景色に沈み込んでいる。
 右足でわずかに地面を踏むと、甲に刻まれた起請陣が光を帯びる。その光に引き寄せられるように、ほの青い固まりがふたつ、浮かび上がった。物の怪鬼火が周囲五間ほどを弱い光で照らし出す。「まあまあ」と猫又が毛ほども表情を変えずに言った。どうせ鬼火が「行灯代わりによびだすな」とでも言ったのだろう。火花を散らしながら周りを飛び回るのを、春枇は適当に手を振って追い払う。

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にっけ CANON 400字詰原稿用紙
約63枚
著者敬白/物語の言葉のどれかが読んで下さった方の中に残ればいいな、と思います。
著者HP/「La Historia
王女セアラと王の落胤・エリド、王国の凋落と復興、拒絶と悔恨、理解と救済……。精緻かつ大胆な構成と端正な筆づかいで、文字による追復曲(カノン)を実現! 中世文学の薫りただよう物語。 【ダウンロード】

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作品冒頭

Prelude 〜前奏〜

 この国に、王妃の笑顔を見た者はいなかった。
 嫁いでこの方、口をきかず一度として笑わない、国の花たる王妃を案じて王は命じた。国中の詩人(うたびと)を呼べ、と。
「楽を奏で、物語を謳わせるのだ」
 鈴の音や異国のいでたちの歌い手たち。それで王妃が笑うなら、と毎夜の宴は華やかさを競った。
 しかし、閉ざされた紗の向こうにいるかのように、歌も王の心も王妃に届いてはいなかった。
 
 今宵もまた月が昇る。
 一人の詩人が進み出て、王と王妃、並み居る貴人たちの前で優雅に膝を折った。
「さて、宴の夜も更け、賢者や勇ましき騎士の話ももはや語り尽くされたと申せましょう。ですから、私は愚か者の話をいたしましょう」



   1

「国王陛下、万歳!」
「新王の御世に幸あれ!」

 城下の町は、歓声と熱気にあふれていた。
 その只中へ馬を進めながら、私の目は懐かしい町角を探す。かつて私はこの町にいた。
 母が亡くなり、顔も知らなかった父に呼ばれるまで、ここが私の故郷だったのだ。こうして冠を戴き、貂の縁取りのマントで帰ってくるなどと誰が考えただろう?
 沿道の手を振る人波、その笑顔。彼らは新王の即位を待ち望んでいた。
 先の王が亡くなられてから二年。誰が王冠を戴くべきか、そして、それを支えるのはどの大臣であるべきなのか。いわば、民とは関係のないところで、国は揺れていたのだ。
 その時、人垣の中から幼い少女が進み出て、私を見上げた。
「こくおうへいか、おめでとうございます」
 小さな手が差し出すものに、私の目は吸い寄せられた。あでやかな、紅こぼれる花冠。それに、私は見覚えがあった。
 身じろぎもしない私を、少女は不安げに見上げる。その目に気づいて私は馬を降りた。
「小さな私の民よ」
 そして、幼い手の下に膝まづく。
「そなたの授けるもうひとつの王冠を、謹んでお受けしよう」
 そう口にしたとたん、周囲からひときわ大きな歓声が上がった。
「我らが国王陛下だ!」
「万歳!」
 降りしきる花と歓声の中。私は再び馬を進める。
 だが、その時、私の心を占めていたのは、祝いの声でも歌でもなかった。
 何故?
 その言葉だけが、繰り返し胸に浮かぶ。あの日。何故、私は拒んだのだろう。
 憧れを湛えたまなざしを。差し出された、あの心を……。

新刊書架
水成 豊 桜波 400字詰原稿用紙
約80枚
著者敬白/岩手県出身。宮澤賢治と石川啄木が愛した自然と人々の薫りを、幻想世界に映しこむことを目標にしています。
著者HP/「A DAY IN THE LIFE -ANOTHER-
非情にも、そのときは間近に迫っている。運命づけられた流れにひととき抗うべく、命を懸けて挑む魔法使いがいた。果たして、季節はずれの桜を見事咲かせることができるのか? ファンタジーの傑作、ここに登場。 【ダウンロード】

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作品冒頭

       1

 龍の名を冠した大陸ディスリト。その北の雄であるリシリタ王国の王都イエンスは、いま花の季節から若葉の季節へと移り変わろうとしていた。
 街の中心部から少し東に逸れた場所に、美しい彫塑で飾られた大きな神殿がある。荘厳な佇まいのそれは、光と癒しの女神シリュエスタを祀る宗派の総本山『デ・ヴィサティローマ』だ。今日も仁慈を得んとする多くの人々が大礼拝堂に詰め掛けている。祈りの声が絶え間なく響くその傍らを過ぎ、奥へと続くまっすぐな廊下を、青年と少女が手を繋いで歩いていた。
 青年は細い身体に草色の長衣を纏い、古代文字が彫られた杖を背負っている。しかしそれ以上に際立つのが、獣のような鋭い爪の生えた指。人間の風体とは異なるその特徴は、彼が魔術師であることを雄弁に物語っている。
 そしてまた、隣を歩く少女にも似通った特徴が見られた。繋いだ左手――その5本の指が、すべて同じ長さをしている。歳は8つほどで、栗色の髪を両耳の後ろで結っている。大きくつぶらな瞳で廊下の向こうを見据えるその横顔を見つめ、青年は気遣わしげな表情を浮かべた。
 二人が向かっているのは建物の裏手側、『癒しの司(つかさ)』と呼ばれる一角だ。病気や怪我の患者を診療する、いわば病院の役割を果たしている場所である。
「あらナタリフ、今日は娘さんと一緒なのね」
 綺麗に掃除された廊下の向こうからやってきたのは、薬学書を手にした赤毛の女性だった。顔見知りの親しい挨拶に、魔術師の青年――《収集家(コレクター)》のナタリフが軽い会釈を返す。
「今日は教習所の講義が休みなんですよ。だから久しぶりに本業の方に集中しようかと思いましてね。……ほらイチゴ、レジィナ女史にご挨拶しなさい」
 そう言うと繋いでいた手を離し、小さな背を軽く押す。はにかんだ笑みを浮かべながら、少女は一歩前に出るとぺこりと頭を下げた。
「こんにちはイチゴちゃん。最近遊びに来ないから、薬局の皆で心配していたのよ」
 レジィナはそう言って屈みこむと顔色を窺った。血色のよい肌に、病気に罹っていたわけではないと察すると、安堵の笑みを浮かべる。
 しかし当のイチゴは答えることなく、にわかに表情を曇らせてうつむいてしまった。隣で見ていたナタリフが、うっすらと苦笑を浮かべつつ援け舟を出す。
「丁度よかった。今から伺おうと思っていたんですよ。先週頼まれた散薬と、それから、師匠が頼まれていた薬が出来上がったというので一緒にお持ちしました」
「あら、ありがとう。今朝がた在庫が切れたところだったのよ。間に合ってよかったわ」
 渡された籠の中身に安堵したレジィナの表情を見ながら、イチゴもまたほっと胸をなでおろした。話題が自分のことからそれた隙にその場を離れ、開け放たれた窓に歩み寄って外を眺めてみる。
 神殿の中庭には心地良い日差しが降り注いでいた。ひらひらと蝶が舞ううららかな風景に惹かれ、心の向くまま庭に続く扉へと向かう。一度ナタリフを振り返るが、彼は話に夢中になっていて声が届きそうにない。遠くに行くわけじゃないから大丈夫よね、とイチゴはそのまま庭へ足を踏み出した。板敷きの廊下から芝生の上に降り立つと、無性に裸足で歩きたい衝動に駆られた。

〈おことわり〉ルビの効果を尊重するためWORDドキュメントを同梱しました。

新刊書架
月瀬 瑠香 インフルエンス 400字詰原稿用紙
約32枚
著者敬白/どんなものにも命を吹き込む事ができる不思議な小説の世界。ただ描くことが好きなだけの私です。ぜひ覘いてみてください。
“僕の世界とゲームの世界と何が違うの?”――仮想と現実の端境から少年が歩み出した世界。その先に待ち受けているものは? 子供たちの今を、巧みな心理描写で活写する月瀬ワールドの真骨頂! 【ダウンロード】

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作品冒頭

 一面の暗闇の中で、唯一明るいその小さな手の中には、眩いばかりに輝くものがあった。重くもなく熱くもない、氷のように透明なそれは、輝きを放ったまま、一瞬にして手の奥に消えていった。
「何だ? これは?」
 体の中がほのかに温かい。でも、心の中にはしっかりと刻み込まれている感覚がある。僕はハッと気がついた。
「そうか、これが……。ついに手にした。この最強の魔法を!」
『……それが真実』
「この魔法こそが真実!」
 痛みも苦しみも、また悲しみすらも何も感じないのに、ただなぜか、涙だけが溢れてきた。
「なぜ? 最強の魔法を手に入れたから?」
 溢れてくる涙と重なって、暗闇だった目の前が、突然、見覚えのある風景に変わっていった。見覚えがあるのに、どこなのかわからない、僕は不思議な感覚に包まれていた。
「唯くん、助けて」
 手を伸ばす目の前の、その人は誰だろう。僕のことを愛しそうに見つめながら、すがるようにさらに腕を伸ばした。
「唯くん、私が悪かったわ」
 何が言いたいのだろう。僕には、その人の言葉を理解することさえ出来ない。ただ、なぜか、助けなきゃいけないような気がして、伸ばされた手に、自分も自然と手を差し伸べようとしていた。
 そして、手に触れたその瞬間、どこからともなく、ものすごい風が吹き荒れ、僕の体は宙に浮かんだ。
「うわー!」
 あまりの風に、いつの間にか手は外れ、僕の体は宙へと飛ばされた。見覚えのある景色が、捻じ曲がったように歪むと、僕は氷のような心の中へと吸い込まれていった。そして、何も感じないまま、誰かが繰り返す声を、意識が途切れていく中で聞いた気がした――。

「唯くん、こんにちは」
「あ、葉子姉ちゃん。いらっしゃい」
 夕方のこの時間になると、葉子姉ちゃんはいつも僕の様子を見に寄ってくれた。両親が共働きのため、僕はどうしても一人になることが多かった。
 葉子姉ちゃんはお母さんの妹、つまり僕にとっては叔母。一人っ子の僕を心配してのことだけど、いつも一人でいるので慣れてはいた。でも、来てくれるのを心待ちにしている自分も確かにいた。
「お母さんはまだなの?」
「うん、今日も仕事だって」
「そっか、唯くん、淋しくない?」
 葉子姉ちゃんは僕の様子を伺うように、顔を覗き込んだ。淋しいという感情が全くないわけではなかったが、それほど感じたことはなかった。葉子姉ちゃんは、両親より遊んでくれたし、僕のことを気にしてくれていた。

新刊書架
水沢 彰 蒼波の果て 400字詰原稿用紙
約31枚
著者敬白/頭に浮かんだワンシーンから広がる世界を一つの物語へ。
そうやって生まれたキャラクター達が織りなす世界をお楽しみください。
「――明日ね、高知にきてほしいの」。兄の婚約者からの電話にとまどいながらも、和也は四国に赴く。足摺岬への道行きに明らかになる事実! 此岸と彼岸の境を歩む二人を叙情豊かに描くファンタジー。
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作品冒頭

 高知空港行きの機内は、ビジネスマンや旅行者、家族連れなどでほぼ埋まっていた。ベルト着用のサインはついさっき消え、キャビンアテンダントが動き始めると、静かだった離陸時に比べ、かすかにざわめく。
 山崎和也は小さな窓ごしに広がる紀伊水道を眺めていた。切れ端のような雲が浮かんでいるが、天気がよい今日、航行する船まで見てとることができる。
 今日この便に乗る予定は、和也には全くなかった。そう、昨日の夜までは。
        ***
 昨日、仕事が終わって最寄りの駅に着いたのは十一時を回ったころだった。ソフトウェア開発という職についているが、残業が日常茶飯事のハードな世界だ。やってもやっても終わらない、それなのにリリースの期限だけは迫ってくる。そんな日々が続いていたが、無事にリリースを終えた今日は金曜日。明日は一日中寝ていられる休日だと思うと、いくら疲れていようと足取りは軽くなる。
 コンビニで夕飯を買い込み、アパートに向かう道すがら、携帯電話が着信を伝えた。ディスプレイを見ると、公衆電話と表示されている。こんな時間帯に誰だろうと訝しむ。
「もしもし」
『和也くん? 私、涼子。わかるよね?』
 電波状況がよくないのかノイズとともに聞こえてきたのは、二つ年上の兄−修平−の婚約者である市川涼子の声だった。

新刊書架
大越 サジ お池様 400字詰原稿用紙
約27枚
著者敬白/日常の中からひょっこりと顔を覗かせる妄想や浪漫が大好きです。
著者HP/「モウロウ
学校の裏手の雑木林に、その池はある。噂では、池の主は「お池様」と呼ばれる恋の判定士。その正体を確かめに行った僕たちが遭遇した出来事とは……。SSでもファンタジーでもない新ジャンル小説、誕生。
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作品冒頭

 ドスン――
 その音は、突然、本当に突然、僕たちの背後から響いてきた。夕暮れ、もう西の空は真っ赤に染まり、木々の至るところが真っ黒い影を長く長く伸ばしている頃。雑木林はもう夜の気配に満ち始めて、シューシューという自分たちの吐く息からも、夜の匂いがしそうだった。
 そんなはずは……。
 ドスンという音を聞いた僕たちは、みんなその場に凍りついたように動けなかった。恐る恐る振り返った後には、ギャアともイヤァともつかない悲鳴。
 でもその前に、僕たちがそこに至るわけを話さなくちゃ。


「待った。今、なんて言った?」
 そのとき、周りの音がすべて、僕の耳の外へと押し出された。
 僕の隣に座っている津島が、メガネを指で押し上げながらもう一度言い直す。
「お池様って知ってるか――って聞いたんだ」
 ……オイケサマ?
 途端に、斜め前から小さな声が飛んできた。
「わたし知ってる」
 大きな瞳を普段以上に大きく開いて、北原さんが前のめりになって言った。視界の隅で、動く頭が見える。隣の津島が頷いたんだと思う。北原さんの顔にニッコリ大きな笑みが浮かんだ。
 僕はほとんど無意識の内に胸の前で手を組み合わせて、「僕だって知ってるよ」と合わせた。
「オイケサマだろ、あの、なんて言うか、噂の……」
 ごにょごにょごにょ。後半は言葉にならなかった。
「夏目、本当に知っているのか?」

新刊書架
水沢 彰 うつろい うつろう このせつな 400字詰原稿用紙
約20枚
著者敬白/頭に浮かんだワンシーンから広がる世界を一つの物語へ。
そうやって生まれたキャラクター達が織りなす世界をお楽しみください。
峻太と透が出会ったのは、桜前線の訪れの時期。透が奏でるピアノの調べに翳りと違和感をおぼえた峻太は、意を決して相手の心に踏み込んでゆく。音楽小説とスポーツ小説の可能性を開く一篇。
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作品冒頭

 部活の帰り道、自転車の前に猫が飛び出してきた。
「うわぁっ!」
 ブレーキを強く握ってハンドルを切った拍子に、車輪が横に滑る。気付けば道路に倒れていて、視界の端を猫が走り去っていった。
(俺、こけたんだ)
 そう頭ではわかるものの、どうにも体は動き出そうとしない。視線だけを巡らせれば、猫が田んぼのあぜ道を歩いていて、田んぼや畑の向こうには、ようやく雪の少なくなってきた北アルプスの山並みがあった。
 目の前を白い何かが横切った。見上げれば青空に、ひらひらと桜の花びらがまっている。
「大丈夫か?」
 桜の袂にエプロン姿の男が立っている。確かこの桜の向こうにある喫茶店『ひだまり』のバイトのはずだ。何度か見かけたことがある。見た目からすると自分より一つか二つ年上のようだから、大学生くらいだろう。
「大丈夫、だと思います」
 そう答えたものの、なんとなく体を起こす気になれず、桜越しの空を見ていた。
「起きあがれないのか?」
「あ、起きれますよ。ただ、こうやって桜見たことないなって思って」
「ひかれるぞ」
「大丈夫ですよ。ここ、滅多に車こないし」
 そういった途端、車の走る音が聞こえてきた。バイトの人は呆れたような表情を見せ、
道路に降りてきた。ようやく起きあがって、じんじんと痛む肘や膝を軽く引きずりながら、道の端に寄る。その間にバイトの人が道の真ん中に転がっていた自転車と、カゴに乗せていたカバンとテニスラケットを拾って、桜の木の下へと運んでくれた。
 通りかかった車が目の前で止まり、ウインドウガラスが開いた。
「おぉ、峻太。こんなところで、どうした」
 声をかけてきたのは、喫茶店『ひだまり』のマスター。父親がマスターと同級生ということもあって、小さい頃からよくしてもらっている。
「さっきチャリでこけて」
「大丈夫か? 店寄って休んでいけ」
 言葉に甘えて、痛む膝を引きずりながら店に向かった。
 店のドアを開けると、ふわりとコーヒーの匂いがした。入り口近くの椅子に座ると、テーブルにどかりと救急箱が置かれた。
「使えば?」
「……どうも。えっと、バイトの人?」
 バイトの人は一言もしゃべらず、キッチンへ向かっていってしまった。
「おい、透。挨拶くらいしたらどうだ?」
 マスターに頭を小突かれ、バイトの人がため息をつく。そして一言、「滝川 透」と名乗った。

新刊書架
水沢 彰 神憑き 400字詰原稿用紙
約22枚
著者敬白/頭に浮かんだワンシーンから広がる世界を一つの物語へ。
そうやって生まれたキャラクター達が織りなす世界をお楽しみください。
祖父から継いだ古い家を改築してはみたものの、奇っ怪なことが頻々と起きて落
ち着かない。そんなとき、不思議な力を持つという“女主人”の存在を知る。ま
だ物の怪たちが棲んでいた懐かしい時代の物語。
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作品冒頭

「こりゃあ、あっしの手には負えませんなぁ」
「そうですか。困りましたねぇ」
 時は文明開化の明治。街には洋装のご婦人方。行き交う馬車や人力車に路面を走る汽車。生活も豊かになり、夜になれば火を焚かずとも電気で部屋の隅々まで照らされる。便利な世の中になったもんだと皆が口にする。
 だが、全てがそうとも限らないのが、世の常というもの。そんな変化に取り残されたようにひっそりと息づく物の怪たちに悩まされる男が一人。
 男−井上 元−が祖父から継いだ古い家を改築して住み始めたものの、奇っ怪なことが毎日のように起こる。家鳴りはするは、窓ガラスにひびが入るは、障子は勝手に破けるは、しまいには玄関の引き戸が開かなくなったりと、どうにも住むには勝手が悪い。
 当然の事ながら、大工に直してもらえるものでもない。どうにかならないものかと、知り合いの坊主にこうやって家を見てもらったが、開口一番、さじを投げられた。
「どうにか、なりませんかねぇ」
「そうさねぇ。あのお方を尋ねるといい。隣町にある呉服問屋の川島屋をご存じか。そこの主人にこうお告げなされ。『女主人は、神去り月の出雲においでか』とな」
 それだけ言い残し、そそくさと帰っていく坊主を外まで見送る。家に入ろうと玄関の引き戸に手をかけたが、びくともしない。
「明日にでも、川島屋に行ってみましょうか……」
        ***
 川島屋は江戸時代から続く呉服問屋だ。古いが立派な店構えに気後れしていると、のれん越しに現れた男に声をかけられた。
「うちになにかご用ですかな」
 筆でしゅっと一筋ひいたような細い目をした男が、人当たりの良い笑みを浮かべている。
「あの、ご主人に」
「へぇ。私が川島屋のあるじですが、どのようなご用でしょう」
「知り合いの坊主から教えられまして。『女主人は、神去り月の出雲においでか』と」
 わずかばかり主人の表情が変わったような気がしたが、「さぁ、こちらへ」と背を向けられてしまった。
 店にあがり、そのまま屋敷の奥へと進んでゆく。背を向けた主人は一言も口をきかないものだから、いったいどうなることかと不安になってくる。
 坪庭の向こう。障子がほんの少しだけ開いているそこで、主人が立ち止まる。
「お客人をお連れしたよ」
「へぇ」
「さ、お入りなさい」
 主人に勧められるまま、座敷に入る。とたん、きつい香の匂いに足が止まってしまう。

新刊書架
mayu-ge 赤の風景 400字詰原稿用紙
約65枚
著者敬白/関西在住。『勇者』や『正義の味方』が登場しないファンタジーを目指しています。
著者HP/「言葉の欠片
穏やかな村に現われた少女サヤと異形の老人。彼らの真の目的を知らぬまま、吟遊詩人志望の少年ダレイはサヤに惹きつけられてゆく……。長篇小説『黄昏人−たそがれびと−』の世界観から生まれたファンタジー。
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作品冒頭

プロローグ

 澄んだ歌声が流れる。さざなみの立つ湖面の上を踊るように流れていく。
 朝もやに包まれた湖畔でリュートをつまびいて歌うのは、少年。
 空は淡く白んではいるが、まだまだ夜の領域にあった。細く鋭利な月が、時の流れに逆らうように最後の輝きを見せている。
 太陽が東の端より姿を見せれば、村人たちは目覚める。歌い終えた少年は、朝が来なければいいのにな、と上空の月に語りかけた。
 ようやく小鳥たちも目覚めたらしい。森が動き始めた。それを確認して、少年は手にしていたリュートを愛しそうに一撫ですると立ち上がった。
 毎朝、彼はこの畔で夢を見る。
 いつか吟遊詩人になれる日を。
 いつか大陸中を旅することを。
 そして、空は朝陽に赤く染まる。
 
 一
 
 少年は名をダレイという。今年で十二になる。
 ダレイはその日も森を歩いていた。毎日通いなれた森の道。その風景を、彼はすべて覚えてしまっている。大きな木も、面白い形をした石も、草陰にある小さな洞穴も。全部一枚の絵画となって、頭の中に納まっていた。
 だから、ほんのわずかな違いもすぐに目についてしまうのだ。
 ふと、ダレイは足を止めた。
 何かが違う。違和感を覚えたのは確かだが、それが何なのかは分からなかった。自分のすぐ近くの風景から、確かめてみる。――何も変わったところはない。
 次に藪の奥、それから木々の間と少しずつ範囲を広げていき、そして見つけた。
 何本も立つ朝陽の柱の向こう側にある不自然なもの。朝という時間にも森という空間にも属さない色だ。紫紺に金の刺繍が施された長衣。
 じっと目を凝らす。本能的に近づくべきではないと悟った。このレクセント王国において、そもそも長衣をまとう人間など限られている。信仰心厚い国王の命で国中の村や町に派遣されている、古代神ギィに仕える神官か、そうでなければ特殊な能力を持つ「魔術師」と呼ばれる人間だ。しかし、ギィの神官であれば長衣は白と決まっているため、おのずと答えは導き出される。
(……魔術師が、どうしてこんな所にいるんだろう?)
 大人たちの噂話や伝説の中ではよく耳にしていたが、実際に見たのは初めてだった。少年は、早く立ち去れという自分の中の警告を聞きながら、その場にじっと立っていた。動かないというより動けないといった方が良いだろう。湧き上がる好奇と恐怖の両方が、動く事を阻んでいた。

新刊書架
月瀬 瑠香 恋する輝き 400字詰原稿用紙
約22枚
著者敬白/どんなものにも命を吹き込む事ができる不思議な小説の世界。ただ描くことが好きなだけの私です。ぜひ覘いてみてください。
その日、何の変哲もない見慣れた川が夕陽の鏡像を結んだ。人を想う気持の切なさと気高さを、こまやかな一人称で描ききったファンタジー。
ますます冴える月瀬瑠香ワールド第二弾。
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作品冒頭

 僕は君の事が好きです。
 いつもそう伝えたくて君の事を見ていました。でも、この思いが決して君に届く事はないのです。それでもいいのです。僕はずっと君の事を、ここから見つめていきます。君に伝えられなかった、彼の思いと共に、僕は思っています……。
 君は、いつもこの大きな川の川辺に座っていました。なぜか、川を見つめるその淋しげな表情にいつの間にか、ひとめぼれをしてしまったのです。気付いて欲しくて、懸命に声を上げていたのを、知らないでしょう?
 僕が誰かの事を好きになる、なんて、そんな事は誰が聞いてもバカにするかもしれません。それでも、僕は構わない。僕は、誰にバカにされようとも、君を思っている気持ちは決して恥ずかしい事ではない、そう思っています。
 でも、最近は不思議なのです。君を見ていると、僕はとても温かい気持ちになれるのです。この気持ちは何なのでしょうか?
 そして、僕の思いは、今日も君に伝わる事がないまま過ぎていくのです。

「しずくは強いね」
「え? そうかな……」
「うん、私だったら堪えられないよ」
 彼女の声が遠くのほうから聞こえてきます。いつも夕日の綺麗なこの時間、学校帰りに彼女は友人と一緒に、この川辺にやって来て、しゃべっていくのです。
「しずくは辛くないの?」
 彼女は隣に座った友人に、無理な笑顔を作って見せます。心に影が掛かっているような笑顔。僕が見てもわかります。
「辛くないって言ったら嘘になるわ。だけど、泣いていても、仕方がないから」
「そうだけど……」
「私が泣いていたら、あの人は笑ってくれないからね」
 友人は、ため息をついて続けました。
「それが、強いって言っているのよ」
 しずくはただ笑って川を眺めています。友人もつられて、川へと視線を移しました。そして、ふと気付いて言いました。

新刊書架
添田 健一 墨竹画扇 400字詰原稿用紙
約21枚
著者敬白/昨年末から今年初にかけて中国にゆきました。その勢いで書いた作品です。はじめての歴史ものになります。読んでくださいませ。
ときは中国北宋。舞台は江南。湖の美化と天災による江南の民の危機に、たったひとりで取り組もうとする、才あふれる杭州新知事。山積みされる困難のさなか、そんな知事がおこなった風変わりな裁きとは……。
※著者インタビューページへ
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作品冒頭

 杭州のまんなかに鳳凰山はある。そのてっぺんに官庁舎は建てられている。そこからは、ひとしくあたりが見渡せた。南に流れる銭塘江とそこに浮かぶたくさんの船も、東の海の入り江に寄せる波も、北の山峰の連なりとそのふもとやてっぺんに壮麗なるかまえを見せる寺社の殿堂も、青い水をたたえる西湖のきらめきも、西湖の東から鳳凰山のふもとまで伸びている城市(まち)のにぎわいぶりもすべてが一望のもとにおさめられた。
 しかしながら、この年の七月に京師(みやこ)からやってきた新しい知州(知事)は、官庁よりも山水の美により近いところで政務にいそしむことを好んだ。
 北宋の哲宗の元祐四年(西暦一〇八九年)。
 西湖の北の湖畔にある寿星院の寒碧軒が、そんな新しい知州のこのところのお気にいりである。
 若い書記の李招(りしょう)も、そうした風流にしばしばつきあわされた。李招もまた、七月にこの地にやってきたばかりである。
 この風変わりな知州が官僚として杭州へやってきたのはこれが二度目である。そのために、ここの僧侶や商いのものに顔なじみも多い。江南の陽気なひとびともまた、あたたかく迎えいれてくれた。あたかも郷里にいるかのように、知州はこの地で気ままにふるまうことができた。
 寒碧軒はあたりが竹林で囲まれている。風が吹くたびに夏の陽をいっぱいに受けた竹が揺れ、涼しい調べを奏でる。この夏は風が多いので、静かな日陰で過ごすのはこのうえなくこころよい。葉のさやぎを耳にしながら、知州は山のように積まれた判決文の数数におどろくべきはやさで目をやり、筆を走らせてゆく。手際のよさに李招は目をみはりながらも、おのれのつとめをこなす。
 ひとくぎりがつくと竹林の小径をふたり並んで歩いた。城市のにぎわいから離れた静かなひととき。きれいに掃き清められているゆるやかな傾斜を歩む。そよ風が心地よい。両手では江南の竹が伸びやかにまっすぐにそびえている。知州はそんな竹青をむかしの友をなつかしむような目で歩をすすめてゆく。水面のきらめきが目に飛びこんでくる。西湖である。さらに湖のほうへと近づく。朱塗りの欄干のある水辺でたちどまる。

新刊書架
川崎 智弘 紙飛行機が、舞う 400字詰原稿用紙
約32枚
著者敬白/編集者経験を持つ学生。信条は『文学は文楽だ』。クセのないニュートラルな文体が特徴。はじけた文章を書けないのが悩みのタネ。
著者HP/「KUMAGAYA AJITO
太平洋戦争末期。父への想いを胸に、一人の特攻隊員が死にゆくベく飛び立った。散華の間際、彼に訪れた天啓と、光明。それは、白く、そして温かかった――。現代の若者から昔の若者たちに贈る、ささやかな戦争物語。 【ダウンロード】

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作品冒頭

 飛行機に乗った私は、今、風のなかにいます。
 突き抜ける風は、強く、少々息苦しさを覚えますが、寒さはありません。眼下に広がる紺碧の海は、静かなものです。
 数刻前、あるいは、もっと前であったかも知れませんが、上へ下への大騒ぎだったあのときと比べると、まるでうそのようです。
 音としてあるのは、ただ、風を切る音のみです。
 風が、飛行機をより高いところへ運ぼうと、下から吹き上げる風に変わりました。それを待っていた私はその力に抗わないように、飛行機の操縦桿を引き上げました。少し前のめりになった私の飛行機は、一瞬下降したあと、うまく風を捕らえたのか機首を上げ、すばらしい勢いで上昇してゆきます。ある程度上昇したところで、私は操縦桿を右に倒しました。飛行機は、私を押しつけながら、その翼を傾け、旋回を始めました。私は、そのまま、眼下の海を眺めました。海は、ゆっくりとぐるぐる右から左へと渦巻いています。しばらくそれを見て楽しんだ私は、機体の傾きを元に戻し、空を見上げました。そこには、まぶしく光る太陽がありました。いまの私には、なぜか、その太陽が、笑った父の顔と重なったような気がして、私をいざなっているように思え、私は、そこまで行ってみたいと思うのでした。

「な、なんだったんだ、いまのは」
 しりもちをついていた男は、よく晴れ渡った青空の中、飛翔してゆく影を遠くに眺めながら、呆然と言った。
 あたりに立ち込めていた血と硝煙の匂いは、すっかり風に流されきっていた。 
「あいつ……俺を見て笑っていやがった」
 それは一瞬の逢瀬だった。黒煙と、機械油の混合物をいたるところから噴出していた機体が、一直線にこちらを……開戦前夜に機関部が故障、吶喊工事でどうにか動き始めて、ようやく前進を開始した自分の艦にめがけ、突っ込んでくるというより、墜落してくるといったほうがふさわしいような、猛然としたスピードでカミカゼ・アタックをかけてきたのだ。飛び交う銃弾をものともせず、その機体はあっという間に男の目の前まで迫った。
 人間は死ぬ瞬間、周りのものがすべて停まって見えるようになるというが、男はまさにそれを体験した。時間にして瞬き一つほど。しかし、男の目は、その刹那のできごとを明確に捉えていた。プロペラの回りがばかに遅い濃緑と銀の上下ツートンカラーに塗り分けられた機体は、着陸する意思など最初からなかったか、ランディング・ギアは上がったまま。しかし、両翼のフラップは下降位置でも、中立位置でもなく、上昇位置にあったのが、いまから思えば疑問に思えた。外枠を残して割れてしまっていたキャノピーからのぞく、そのパイロットの姿。風にあおられ、ゆっくりと棚引く白いマフラー。飛行帽も、フライト・ゴーグルも着けてはおらず、短く刈り込んだ黒い頭が見えた。パイロットの双眸は、風圧に負けることなく見開かれ、その視線がこちらのそれとぶつかった。風に負けまいと、口を真一文字に引き結び、歪んでいたパイロットの顔が、ふと、柔らかくなったような気がした。眉間のしわがとれ、白い歯が、口の隙間からこぼれて見えた。確かに、笑みと思えるものが浮かんでいたのだ。

新刊書架
黒川 瑞英 はね 400字詰原稿用紙
約57枚
著者紹介/「なかなか筆が進まなくて」と言いながら、オリジナル作品を精力的に発表。本作は『青の棺』シリーズの一篇です。
著者HP/「とおの館
“はね”の降る夜、運命の歯車が回り、命の火が消える――。それは避けられない定めなのか? 迫り来る破滅の黒い影を前に、天才予言者、占い師、謎の若武者の思惑が絡み合う。 【ダウンロード】

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作品冒頭

 十五年前と同じものは何一つない。町並みも人も、すべてが変わってしまった。
 かつては占いの館がずらりと並んでいた二番通りは、今やこれといった特徴のない商店街になっている。
 町が一望できる丘に独り、エリンは佇んでいた。風が吹くたびに、黒いロングドレスの裾がはためく。
 町が変わったように、自分もまた変わったのだろうか。
 町の人々は、エリンを英雄とあがめる。一度は滅びかけた町を救った英雄だと。
「私が英雄だって。笑っちゃうわ」
 テイネで一番の占い師として名を馳せたあの頃は、遠い昔のようだ。

◇ ◇

 黒光りした人力車から降り立った女は、胸元が大きく開いた黒いロングドレスに身を包んでいた。
 車夫は、彼女のスリットからのぞいた脚線に、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 折れそうなほど高いピンヒールのサンダルは、踏まれたらひとたまりもないだろうという恐れさえ抱かせる。
「エリン様。この辺りは治安が悪い。長居しねえほうが身のためですぜ」
 気色ばんだ顔で言われても、従う気になれない。エリンはむっとした。ハンドバッグからくしゃくしゃになった札を引っ張り出し、車夫のしまりのない顔に投げつける。
「ここは、私が生まれ育った場所よ。ゆっくり懐かしんだっていいじゃない」
「けどよ、エリン様にもしものことがあったら、おいらが町を追い出されちまいます」
 テイネの町で彼女を知らない者はいない。エリンの占いは『絶対』と賞されるほど、はずれたことがないからだ。
 その腕を買われたエリンは、町から保護を受けている。彼女に危害を加える者は厳しく罰される決まりだ。危険な場所にエリンを連れて行った車夫も、その例外ではない。車夫が不安がるのも当然だった。
「なるほど。私の心配じゃなくて、自分の身の心配をしているわけね」
 エリンは、ピンヒールで思い切り地面を蹴った。ヒールはあっけなく折れ、石畳に転がった。
 車夫はわずかに後退った。
「やだ、ヒールが折れちゃったわ。困ったわね」
 ヒールを無くした靴ともう片方の靴を脱ぎ、裸足になった。折れたヒールを拾い上げ、車夫の手に無理矢理握らせる。
「悪いけど、靴を直してきてちょうだい。わたし、あなたの車に座って待っているから」
「だ、だったら、一緒に靴屋に行きゃあいいじゃねえですか……」
「あら、そんなこと言うの?」
 どうなっても知らないわよ、と言わんばかりに、エリンは車夫を横目で睨み、髪をかき乱した。これでもかと短く切った黒髪は、毛先だけを赤紫色に染め変えてある。いつも首に下げているペンダントトップと同じ色だ。

新刊書架
月瀬 瑠香 ナルと水仙の秘密 400字詰原稿用紙
約22枚
著者紹介/全作品をつらぬくテーマは、「どうせ生きているなら楽しいほうがいい!」。最近は「韓流」にハマり中。
勉強でもスポーツでも校内トップの水島成一は、ある日、見えない少年・ナルの声を聞いた。やがてナルの秘密に気づいた成一は、校舎の屋上をめざす。「まだ、間に合う!」と叫びながら。
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作品冒頭

 それは、僕と水仙の思い出――。

「楽になるんだ……」
 僕は、冷たい風に吹かれながら、その場所に立った。
 僕を苦しめていたものから開放されると思うと、怖さなんて微塵も感じなかった。ただ今の状況から逃げ出したかった。
「楽になんかなれない!」
 突然僕の耳に飛び込んできた見知らぬ声に、慌てて振り返った。でも、そこには誰もいなかった。
 その時だった。突然、強い風が僕の体を後ろへと押し流した。
「あ!」
 僕はバランスを崩して、宙に投げ出された。
 体の自由が利かない。その時、また僕の耳にさっきと同じ声が聞こえてきた。
「俺なら助けられるぜ」
「え……?」
 僕は、空を見つめながら、朦朧としていく意識の中にゆっくりと身をゆだねていった。ただ、水仙だけがその様子を眺めていた――。

「成一くん、また一番なんだ」
「勝てないよ、成一には」
 大きな掲示板に張り出された一枚の長い白い紙。クラスのみんなどころか学年中の生徒がその周りに集まっているのが見える。俺に対して、感心の眼差しで眺めるその様子は、もうすっかりいつもの出来事となっていた。
 先日行われた校内期末テストの順位が発表されるこの日を、いつも余裕の表情で迎えていた俺は、みんなと同じように掲示板の紙に見入った。後ろからなんて見ていく必要はない。「校内期末テスト順位」と言う項目の隣を見れば、もうそれでよかった。
1位 水島 成一 497点
 俺は、いかにもそれが当たり前といわんばかりに、掲示板を見て笑った。そして、学校で唯一一人になれる中庭に向かった。

新刊書架
Basi 街路 400字詰原稿用紙
約29枚
著者紹介/関東育ち、関西在住。べたつきのない澄んだ作風が持ち味。淡泊でいて力強い作品群にファン多し。
著者HP/「Reflecition in the water
3年ぶりにその街を訪れた環(たまき)は、思いがけず、失くしたはずの過去と向き合う……。呼び覚まされてゆく記憶、研ぎ澄まされてゆく五感。
過去からつかみ取った小さな奇跡の物語。
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作品冒頭

 ホームに降り立った途端、不思議な感覚に襲われた。
 並ぶベンチ、行き交う人々、馴染んでいたはずの景色が、かえって見慣れなくて。階段を上がるたび、角を曲がるたび、止まったはずの時にぶつかるような気分にさせられる。
 時計を見上げ、息をつく。
 三年前、この駅から電車に乗って、私は今住む街に引っ越した。
 戻ってくるのは三年ぶり。距離的にはそう離れていないのに、おかしなぐらい、足を踏み入れなかった。
 
 外への階段を下りると、街はまだ、残暑の気配。
 時刻は土曜の二時四十五分。あまり歩く人もいない、駅前大通を南下する。
 広い路上には風が吹き、かさかさと街路樹の葉が鳴っていた。車道脇の白線が、眩しく反射している。人気のない交差点を渡り、車のいない車道を横切り、地元の生徒ばかりが通る、目立たない細道へと入る。三年近く通った、中学校への道だ。
 日差しに逆らい、一人で歩く。
 曲がりながら続く道は静かで、人の姿も、後輩達の姿もなかった。
 どこにでもあるような街。けれど私にとっては、やっぱり特別な街。七歳から十五歳まで、私はここで育ったのだ。

 ……あ、まだ居た。
 一軒の庭先に、登下校のとき毎日顔を会わせた和犬の雑種が、同じ小屋、同じ鎖でまだ繋がれていた。
「チャコ」
 名前を思い出して声をかけると、尾も振らずにこちらを見る。犬小屋からはみ出た汚い毛布も、ピンクのプラスチックのエサ皿も、昔と変わらないかもしれない。
 飼い主が、どんな人なのかは知らない。三年間ここを歩いたけれど、住人の姿は一度も見なかった。
「……バイバイ」
 小声で別れを告げて、通り過ぎる。すると黙ってこちらを見送る、無愛想な瞳。

 今日、この街に来た理由は、中三の時のクラスの同窓会だ。高校を出てバラバラになる前に、集まろう、と連絡が来た。
 もっとも、会が始まるのは夕方からだし、会場も、駅向こうの中華料理屋なのだけれど。当時仲が良かった子達が、早めに会って喋ろうよ、と誘ってくれたから、こんな時間から、ここにいる。
 待ち合わせ場所は、中学近くの喫茶店。
 でも、約束の時間には少し早い。店の前を通り過ぎ、中学まで足を延ばす。緑の垣に沿って歩き、その先のフェンスから中を覗くと、三年ぶりに目にする校庭が、日の光に白く映えていた。ボールを追うユニフォーム姿も、交わされている掛け声も、昔と何も変わらない。
 ……見ていると、胸が重くなる。
 今、住んでいる町からここまで、電車ならば一時間もかからない。本当は、来ようと思えばいつでも来られたはずだった。
 なのに三年間、一度も戻って来なかった。
 なぜなら……戻りたくない、理由があったから。
 会いたくない人が、いたからだ。

新刊書架
星野 すばる 光と闇のはざまで 400字詰原稿用紙
約100枚
著者敬白/剣と魔法、きらきらしい妖魔やエルフが出てくるだけのファンタジーは書きたくない。今も昔も我が道だけを突っ走ってます。
著者HP/「星狩人
地球からの負荷――「闇」を浄化し、双児世界の調和を保つために存在する星、ルーデ。闇を狩り、消し去る力を持つ「古き血の民」を率いるべく生まれたアルフレートは、負の感情に押しつぶされようとしていた。壮大な物語の序章篇。
※著者インタビューページへ
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作品冒頭

 プロローグ

 朝露にぬれる森の中を、青年たちが静かに歩いている。
 その前方に、ひどく暗い場所がある。
 常なら、この時間、森は若い陽光を浴びて淡く輝く。だが、今朝は違う。その場所だけが取り残されたように暗い。
 もやだ。黒いもやが、その空間をけぶらせている。
 先頭の青年が歩みを止めた。
「大きいな。ここまでのものは久しぶりだ」
 その言葉に、一同が身を強ばらせた。一番若い少年など、特に蒼白な顔をしている。
 隣の者が気付き、その肩に手を置いた。
「初めてで不安なのは分かるけど、そこまで恐れなくていいよ」
 先頭の青年も振り返り、力強く笑う。
「そう、『闇』を狩るのは我らルーデの民の使命だ。恐れていては務まらない」
「はい」
 少年が大きくうなずいた。
 このもやは毒だ。放置すればこの辺り一帯の草木を枯らし、土を穢す。やがては荒野となって、森を殺す。二度と緑に還らない。そうなる前に発見し、消すのが彼らの使命だ。森が消滅すれば、彼らもまた生きられない。
 そのとき、世界は終わる。
 一同が円陣を組んだ。
「光に還れ、エルデの闇よ」
 青年が剣を頭上に掲げる。各人が胸の前に手を伸ばす。その先に光が灯る。それらを受けて、剣の柄にある石がなお一層青くきらめく。
「エルデ、ツリュク、ツア、ルーデ」
 力を秘めた声が辺りを震わせる。その瞬間、切っ先から稲妻が躍り出た。辺りが青く染まる。
 もやが白くかすんでいく。完全に消滅するまで、もういくらもかからない。
 やがて、朝の光がその空間を照らし始めた。


新刊書架
高宮 直江 蜘蛛を孕む女 400字詰原稿用紙
約20枚
著者敬白/人生、なにが起きるか分からない。そう言った女性と、ほぼ同じ年齢になった今。彼女の微笑みとその真意を思い出すことがあります。
著者HP/「逢幻館
寿退社をしたはずなのに、なぜか恭子はビル清掃のアルバイトに――。
そんな恭子の前に謎の女、詩織が現れる。狂気と業が交叉する一瞬を描く、高宮ワールド第2弾。
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作品冒頭

 今年もあと半月をきった今、一段と冷え込む日が続き、水の冷たさに手荒れが治らない。ハンドクリームを塗り込んでも、仕事では効果がないと思いながら、木下恭子はかさついた自分の手を見た。街並みを彩り始めた灯りと、忙しない人達の様子を見ていると、よけいに疲労感が増していく気がする。
 五年ほど勤めいてた会社を、結婚を理由に退職したのは約三か月ほど前だった。そのときから、いくつかのアルバイトを掛け持ちし、なんとか生活ができるまで、そう時間が掛からなかったのは運の良い方だろう。
 会社員のときとは違う不規則な就業時間であっても、仕事があるだけマシだと言ったのは母だった。将来を心配して、ため息をついた姿を思い出す。二十五歳になった娘の花嫁姿を見ることもなく、木下の名字が変わることはなかったからだ。

 指紋一つ、ましてや拭きムラなどまったく見当たらない扉の窓は美しい。毎朝それをつくりだすことが日課であり仕事の一つだった。窓拭きからトイレの便器磨きまで、ビルの清掃を繰り返すアルバイトの日々は、もう二ヶ月ぐらいになる。
 以前の仕事より重労働で、午後三時過ぎには仕事が終わり帰宅するのが今の生活だった。それが始まったのは三か月ほど前、彼の唐突な一言からだった。
『友達に戻ろう。俺、別の女と結婚するから』
 数週間後に結婚式を控えた頃、江原武史はあっさりと断言した。理由を問いただすと、別の女との間に子供ができた、と言うのだ。この男との結婚生活を夢見て、勤め先を退職した直後のことだった。なんの迷いも悪びれた様子もない武史は、自分の発言を撤回することはなかった。事実、その結婚式で彼の隣りに立ってはいない。

新刊書架
高宮 直江 片翼の天使 400字詰原稿用紙
約30枚
著者敬白/心を否定する言葉があってもなお、一生懸命に前を向いて生きていたいと思うのに。現実は、いつだって優しくはないようです。
著者HP/「逢幻館
30歳の誕生日を迎えた日、倫子の前に非日常的な空間が広がった。過去を押し殺し、単調な日常に耐えていた倫子に示された道は生死の選択。筆が冴えわたる第3弾。
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作品冒頭

 暖かくなってきた日々が今朝になって急に冷え込み、昼前になっても雪が降り止まない。二月も中旬を過ぎたというのに今日は寒いと思いながら、各務倫子は書類に目を通していた。暖房が効いた会議室にいながら、ストッキングに包まれた爪先が冷えている。
 多忙な通常業務を離れて出席した会議は、予定より一時間も長引いていた。ふと視線を向けた窓の外はビルが立ち並び、積もることのない雪が降っている。
「どうした、倫子? 会議中、外ばかり見ていただろう。経理グループの社員が、なにをそんなに苛ついている?」
 会議終了後、退室しようとした時に呼び止める男がいた。呆れたように笑う各務一磨に、会議の話は聞いていた、と反論するのは無駄だろう。三歳年上の従兄弟でもある一磨は、なにもかも見透かしたように目を細める。
「そう見える? 会議の内容などどうでもいいし、忙しいのよ。なにか用なの?」
 はぐらかすように笑っては、すぐ傍に近づいてきた背の高い男の顔を見た。
 月末のための資金繰りや、二百を超える関連会社の連結決算の準備などを思うと、ため息をついてしまう。経理の仕事は、日々、時間と数字に追われているようなものだった。
「あいかわらず仕事熱心だな、倫子。忙しすぎて機嫌斜めか」
 会議中の態度を見ていたらしい。その声が嫌な事を思い出させて、思わず聡い一磨を睨んでしまう。
「ここに来たとき、総務室の若い女子事務員に、にらまれたのよ。まさか、あなたと付き合っていて捨てられたのは私のせいだ、という意味があるんじゃないでしょうね。だったら巻き込まないでくれる?」
 一磨と同じ課にいる女が、なにをどう誤解しているのか分からない。だが女の視線には、嫉妬よりも激しいものが含まれているように思えた。

新刊書架
稲葉 樹 ブルー・ムーンへようこそ。
400字詰原稿用紙
約89枚
著者敬白/少しでも、『当然』のものが大事になる。そんな気持を抱いて下されば本望です。
著者HP/「緑樹庭園

失ったものの大きさに初めて気づいた「私」を、温かく包み込んでくれた場所――それが『BLUE-MOON』だった。時間と情念が交錯し堆積する空間がもたらすものは……?
希求と救済のファンタジー。

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作品冒頭

1.The Crescent-moon rose.


 本来、私はこのようなことをする人間ではない。文字を書くことなど、今では仕事の上でしか必要のないことであるし、若い頃も正直、作文は大の苦手であった。
 しかし、ただ一人でも、この拙い文章を望む者がいるのなら、私はかねての約束通り、貴方がた、ブルー・ムーンの住人達へ、私のこの物語を捧げようと思う。


 それは、私が妻をなくして数日経った日のことだった。
 私達夫婦の間には子どももなく、思いもかけず身軽になってしまった私はその頃、淋しさも手伝い、仕事という逃げ道に没頭していた。待つ者のいない家に帰るのはあまりにも辛く、私は、自らの足をそこから遠ざけた。仕事が残っているから、雑務が片付いていないから。と、自分をごまかし、家路につこうとしなかった。
 それは、間違いなく自分を取り巻く現実と、自分自身の意識からの逃避だったのだと思う。
 いつまでもずっと、共に行けると思っていた伴侶の、突然の消失。あまりにも自然に側にいた妻を失った時、自分自身の大半を奪い去られたかのような気さえ、した。
 その時気づかされたのは、何もかも、ひとりでは出来なさ過ぎる自分自身のことで……妻がいた頃は、私が彼女を支え、護っているのだと思っていた。それはあまりにも自分勝手な錯覚なのだということ。
 むしろ、私に心の安らぎを与え、結果的に私を支え護ってくれていたのは妻の方だったのだ。という事実を、その消失と共に気づいた自分の愚かさと傲慢さに怒りを覚えた。
 悲哀と憤怒と、その他、様々な感情が私自身を侵蝕する。まったく、端から見れば、そんな私は本当に酷い有様だったのだろう。
 さすがにそんな私を見兼ねたのか、上司は私に帰宅と数日の休養を命じてきたが、私には帰るところなどなかった。あの家は、待つ者のいないあの場所は、私の帰る場所ではない、と。この時は本気でそう信じていたのだ。
 仕方なしに、家路までの通い慣れた街を一人で飲み歩き、ほとんど意識的に終電を乗り損ねた私は、平日深夜の人気のない街を彷徨していた。と、その時だったのだ。私が、小さな路地にその看板を見つけたのは。

新刊書架
氷月 まさら 夏の約束 400字詰原稿用紙
約24枚
著者紹介/「西の果ての列島」から「歴史と学生の街」へ移転。その圧倒的な筆力は、大学2回生とは思えないほど。将来の活躍が楽しみな存在。
本土の中学校に進学したユータが帰ってきた。出迎えたのは、幼なじみのミヤ。
失われたものへの郷愁、鮮やかな思い出、未来への希望。遠い約束が更新される、一瞬のきらめきを描く。
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作品冒頭

 青空、太陽、セミの合唱。島の港から、出船の二笛が遠ざかる。
 中学一年生の夏休み、おれは島に帰ってきた。四ヶ月ぶりだった。おれの小学校の卒業と同時に、とうさんは養殖の仕事をやめた。本土の市場で新しい職を見つけて、おれたち家族はそっちに引っ越したんだ。ばあちゃんは、じいちゃんの墓を守ると言って島に残った。おれは、部活が休みの一週間を、ばあちゃんちで過ごす。
 四ヶ月もの間、島を離れて過ごしていた……小学生の頃のおれだったら、信じられなかったはずだ。六年生の秋に修学旅行で二泊三日、島の土を踏まなかった。それが最長記録だったんだから。
 引き潮の浮き桟橋から陸に駆け上がって、おれはそのまま小学校を目指した。そんなに遠くじゃない。出っ張った海岸線のカーブを曲がるだけ。海に迫った山がポッカリ途切れて、狭い平地が開ける。
 そこに運動場が広がっているんだ。二百メートルトラックと、その隣にソフトボールのダイアモンドがひとつ。水ハケがわるくてハゲチャビンでゴツゴツしてる運動場。
 おれは思わず息を呑んでいた。
 本当になくなったんだ……。
 背中のリュックが、ズンと重くなった感じだ。おれは息を吐き出した。
 そこにあったはずのものは、何ひとつなくなっていた。運動場の向こう側、山のすぐふもとに建っていた木造三階建てのオンボロ校舎。バスケットコートがギリギリひとつしかとれなかった体育館。二年生の頃に植えたヤクスギとカヤノキ。鉄棒、うんてい、登り棒、シーソー、ろくぼく、馬跳びタイヤ、サッカーゴール、ぶらんこ。全部、なくなっていた。
 島の小学校は、去年の三月に廃校になった。二十人にも満たない島の小学生は全員、四月から、渡海船に乗って登下校するようになった。『吸収合併』ということばを、大人たちは使った。三十年も昔に島の中学校が消えたのと同じ。そしてたぶん、何年か先のこの町とも、同じ。

「ユータ」
 不意に名前を呼ばれた。いつの間に来てたんだろう。声の主は、振り返らなくても分かっている。でも、振り返ってやった。
「なんや?」
 幼なじみのミヤが立っていた。おれのたったひとりの同級生。おれとふたり、消えてしまった小学校の最後の卒業生。相変わらず、Tシャツと短パンっていう、男みたいな格好をしてる。
「おかえり」
「ああ……ただいま」
「あれぇ? 何か変なか」
 ミヤは、少し首を傾げた。ちょっと視界を斜めにすれば、変だと感じたことが解決するかのように。そして、都合よく解決したらしかった。「あ、そっかぁ」と、ミヤはひとりでうなずいた。
「何が変なかとや?」
「ううん、よかと、よかと。ねえ、学校さ、見事に、なぁんもなくなったやろ」
「ん。びっくぃした」
「六月んね、全部壊されたっさ。でっかかクレーンの、船で来てさ、鉄球振り回して」
「うん。ばあちゃんから写真の送ってきた」
 きれいな写真だった。六月には珍しい真っ青な空に、古びた木造校舎の姿はよく映えていた。そう、それはきれいな写真ではあったけど、なんだか変だとも思った。しんと静まりかえった姿。儀式を待つみたいに。音や匂いや風を思い出したり思い描いたりしてみたけど、しっくりこなかった。誰も写ってなかったせいだ。窓も閉まっていて、カーテンさえかかってなかったせいだ。抜け殻だったんだ、あれは。

新刊書架
高島 芙美 グランドスラム 400字詰原稿用紙
約46枚
著者敬白/テニスファンだけど、もっぱら見るほう。グランドスラム大会は欠かさずテレビでチェックしてます。子供に手がかからなくなったら、現地に飛びます!
フレンチオープンの季節が近づいてきた。パリの小学校に通う光は、開催が楽しみでしかたない。そんな折り、光に学校から大役が与えられる。テニスと絵の狭間に揺れる瑞々しい魂を描く。
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作品冒頭

       一


 ――プレイしながら絵が描けたら……。
 ――キャンバスに向かいながらラケットが振れたら……。
 こうしている間も、仲間たちはテニスがうまくなっていく。テニスコートと手許のスケッチブックに交互に視線を移しながら、保科光は鉛筆をせわしなく動かしつづけた。
 視界の隅に白いものが飛び込んできたが、無視した。どうせサービスに失敗したんだろう。
「イカル! ボールを取ってくれ」
 エコール・プリメール(小学校)の五年間、級友たちは一度も「ヒカル」とは呼んでくれなかった。ちなみに、名字の保科を彼らは「オシナ」と発音する。
「ぼくはボールボーイじゃない。自分で取りにこい」
 鉛筆を動かしながら、光はきっぱりと言った。
 真っ赤なTシャツにグリーンの短パンといういでたちのシャルルがラケットを引きずりながら近づいてきた。「きょうは何の絵を描いてる?」
「テニスコート」
「スーパープレイヤー勢ぞろいだ。気合が入るだろう」
 シャルルはコートの面々を紹介するように両腕を広げて見せた。国籍が同じだったり、顔立ちが少し似ていたり、ファーストネームが同じだったりという他愛のない理由で、このジュニア向けテニスクラブの連中は国際的なテニスプレイヤーになりきっていた。スキンヘッドにちかい丸坊主のシャルルは、もちろんアンドレ・アガシだ。
 ボールを拾ったシャルルは、光の肩越しにスケッチブックを覗き込んだ。
「なんだよ、これ? 誰もいないじゃないか。ファン・カルロス・フェレロ、セバスチャン・グロージャン、ロジェ・フェデレ、そしてアンドレの豪華ダブルスが見えないのか」
「雨だからね」
「雨だあ?」シャルルは青空を仰ぎ、仲間を呼んだ。「イカルがとうとういかれやがった!」
 最初はからかっていた級友たちだったが、硬めの芯でていねいに陰影がつけられたテニスコートに見入りはじめた。
 クレーが敷き詰められたコートには大小の水溜りができ、そこに雨粒がつくる小さな水紋まで描いてある。最初はぴんと張ってあったらしいネットが、いまや雨水を吸ってだらしなくたるんでいた。

新刊書架
流 彩斗 水仙の湖 400字詰原稿用紙
約20枚
著者近況/本年4月、人生最大の試練(…かも)に挑戦! というわけで5月まで新作に取りかかれない模様。 AZUSA通信教室在籍。
すばらしい絵の才能を持つ後輩の出現に、美術部部長、小島彩はスランプに陥る……。創作を志す者に爽やかな読後感と勇気をもたらす佳作。
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作品冒頭

 空は晴れている。小島彩は頬杖をついてそれを眺めていた。景色を見るのは好きだ。学校の窓は広くて、家から見るより気持ちがいい。もちろん、戸外で見上げる空よりは格段に落ちるのだけれど。
 当番の男子が、まだいるのかと声をかけてきた。ストーブを消してしまっていいかという意味だと気づき、席を立つ。
「もう部活に行く。消していいよ」
「そか。まだはじまってないのか? 今日は遅いじゃん」
 以前は確かに、放課後になるとすぐに部室に向かっていたものだ。授業用のカバンと部活用の道具類をまとめて肩にかけながら、仕方がないのでおどけてみせた。
「部長は重役出勤でないとかっこがつかないからね」
 おっさすがだなと笑う男子に手を振った。もう少し時間をつぶしたかったなと思いながら廊下に出る。寒くて、少し震えた。
 もう冬が来ている。廊下は寒いし、教室に効きの悪いストーブがついたし、カレンダーも最後のページになった。
 焦ってしまう。
 唇を噛みしめたまま歩く。早足だったにもかかわらず、何故なのだか、今最も見たくないものを見てしまった。
「………」
 彩はその場にたたずんで、後戻りしたいという願望と戦わなくてはならなかった。寒さが足元を這いのぼってきてようやく、そちらに足を向ける決心をつける。
「辻野さん」
 声をかけると、歩いていた女子生徒が振り向いた。可愛らしく、微笑む。
「こんにちは、部長」
 辻野しおりという少女は、名前の響きそのままに、柔らかな空気の持ち主だった。にこりと微笑まれると、こちらまで温かくなるような。
 この間まで親しい後輩だったのに、今は何もかもが、妬ましい。
「ねえ、あのね、私今日は用事があって、ちょっと部活に行けないの。伝えておいてくれるかな?」
 もともと重かった足取りが、彼女を目にしたことでとても前に進まなくなった。ひどくいたたまれない気分で、もう部活に行くことなど考えられない。
「あ、わかりました。先生に言っておきます」
 しおりは疑うこともなく微笑んだ。ひどく惨めな気持ちになる。
 彩はくるりと踵を返した。

新刊書架
流 彩斗 秋、ひだまり。 400字詰原稿用紙
約20枚
著者紹介/「BLUEPRINT」管理人。ボーイズラブがメインコンテンツと思いきや、一般小説のみの「別館」もあり。お好きなほうをどうぞ。 AZUSA通信教室在籍。
ある施設に勤務する亮治は、同僚・明の心配をよそに猫と暮らしはじめた。その矢先、猫が家出をしてしまう。懸命に探す二人の胸に不吉な思いが……。命を見つめた佳作。
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作品冒頭

 いなくなったんだ、と言うと、明はおもしろいくらいに真っ青になって手に持っていた書類をバサバサと落とした。
「えっ……え?」
 足元に散らばった書類を伏せた目で見ながら、亮治は相変わらずの淡々とした口調でもう一度言った。
「いなくなった」
 明は青い顔のまま瞬きをして、言葉もなく亮治を見返している。
 遠くで聞きなれた悲鳴がしていた。



      1.


 ペットが恋人というのも情けなくてなかなかいいような気がして、久保亮治はその猫をひきとることに決めた。小さな小さな身体で鳴きもせずにこちらを見上げる顔が気に入った。なかなかに美人な、三毛のメス猫である。
「え、飼うのか?」
 同僚で友人の大谷明が隣にいる。意外そうに言う声に、亮治は笑った。
「そう。可愛いだろ?」
「うん……可愛いけどさ」
 明は亮治の腕に抱かれた仔猫を慈しむように指先で撫でてから、小さな声で続ける。
「……でも、僕はもう、自分で動物を飼おうとは思えないな」
「……ふうん」
 だいぶ感覚が麻痺してしまっていて、亮治はもうそんなことはあまり考えない。……けれどそう言われてみると、生き物を見るたびに耳の奥に蘇る音があるような気がする。シュッという気体の音、どさ、と倒れる鈍い音が、胸をしめつけるような。
 小さな猫はまだじっと亮治を見ている。
 ……もしかしたら自分は試したいのかもしれない。
「名前考えないとな、チビさん」
「……可愛い名前にしてあげな」
 明はもう一度仔猫の頭を撫でて、それ以上何も言わずにいてくれた。


 亮治の家は築20年1Rのマンションで、ペット応相談の看板を掲げている。昼夜の別なく犬や猫や鳥の鳴き声がして、入居当初はずいぶん後悔をしたものである。一人暮らしをするようになったら絶対に動物を飼おうと夢見ていたために選んだマンションだったのだが、他家のペットにうんざりするうちに、何も飼わないまま5年が過ぎてしまっていた。
 ……それだけが理由で飼わないわけではないだろうと、明なら言うのだろうけれど。

新刊書架
高宮 直江 真実の狭間 400字詰原稿用紙
約20枚
著者紹介/「逢幻館」管理人。サイト内ではオリジナル小説、イラスト、ファンアートなど多彩な活動を展開する。通信教室卒業生。 大学時代の友人、秋人が不審な死を遂げた。警察で事情聴取を受けた三崎慎一の前に謎の男が現れる。平凡なサラリーマンの日常に生じた亀裂は、破滅への前ぶれか? 【ダウンロード】

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作品冒頭

 一歩踏み出すと、秋も深まる今とは思えないほどの日差しがアスファルトに照り返され眩しかった。暖かさを求めるように建物から出て歩き出した三崎慎一は、空を見上げながらため息をはいていた。穏やかな陽気なのに、二日酔いのひどく疲れた体が重く、わずか数歩で足が止まる。
 慎一の背後には警察署の建物があった。交通量の多い道路に面しているが、ここの敷地を往来する者は少ない。昨日と同じ服を着たままの土曜日の昼、慎一は警察に呼び出されていた。その帰りに、車の騒音と昼間の日差しの中、気分が悪くなり立ち止まっていた。
「まいったな、気持ちが悪い……」
 収まる気配のない吐き気を紛らわせようと、スーツの上着のポケットから煙草の箱を取り出す。体に悪いと分かっているが、禁煙するつもりもなく最近は本数が増えていた。潰れた箱の中身をのぞくと一本だけ残っている。その煙草の箱は、昨夜から上着に入れたままのものだった。
『お前、煙草吸いすぎだぞ、慎一』
 ふいに男の声がよみがえる。慎一から取り上げた煙草を灰皿に押し付け、もみ消した男の顔が浮かんだのだ。慎一は目眩を感じて目を閉じため息をつくと、警察で二度目に再会した友のことを思った。

 別れてから十二時間も経ってはいないはずなのに、その男は幾分白くなった顔をさらし冷たくなっていた。暗く狭い部屋で慎一が見下ろす先には、白い布に覆われ二度と動くことのない彼の横たわる姿があった。警察署の霊安室で二度目に再会したその友の名は、北川秋人という。

新刊書架
叶 響希 ミルキーウェイ 400字詰原稿用紙
約107枚
著者敬白/思春期真っ最中の方にも、思春期を通り過ぎた方にも(!)読んでいただきたい作品です。
著者HP/「GreenGarden
親の都合で田舎暮らしに放り込まれた16歳の美和。蝉の声、田んぼ、お隣さんに苛立つ日々を、突如、都会の風が吹き抜ける。美和の心に立ったさざ波の行方は? 叙情とユーモアが溶けあった極上の青春物語。
※著者インタビューページへ
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作品冒頭

 セミが、好き放題に鳴いている。
 白い雲、青い空、じりじり照りつける太陽。恨めしいったらない。
 風は生温く、おでこにはりつく前髪の鬱陶しさはこの上ないのだ。まったく、冗談じゃないわ。
 唐突だけどわたしは、高校生活っていうものに憧れていた。学校帰りに友達とファーストフードを食べたり、買い物をしたり、制服なんかもかわいく着こなして、髪型も凝ってみたり。そうそう、登下校の電車の中ではカッコイイ男の子との出会いなんかもちょっぴり期待したりして。
 なのに。
 おさげ髪を振り乱し、スカートの裾がめくれ上がるのを気にする間もなく、自転車こいでいるのが現実なのだ。
 本当に腹が立つ。なだらかにうねった道が這う田園地帯なんて。微妙に上り坂だから、途中で止まるとバランスを崩して転びそうになるのだ。カゴに鞄を入れたまま押して歩くなんてしていたら、この暑い中、干からびそうだし。
 目指すは、この忌々しい坂道の頂上付近にある、木造平屋建ての一軒家。つまり、二ヶ月前からのわたしの家だ。
「お帰り、美和」
 家の前の畑から、ママが手を振る。少し前なら、エプロン姿も素敵で、お洒落をしてもそれなりに絵になっていたのに、今じゃ麦藁帽子がトレードマークになってしまった。もう「ママ」なんていう柄じゃない。いや、それを言うならパパだって同じだ。大体、突然この田舎暮らしを言い出したのはパパだった。会社をリストラされたと思ったら、さっさととんでもないことを決定してしまったのだ。ママは快く同意しちゃうどころか、パパより先に物件を見つけてくる始末。わたしと弟がしつこく粘ったところで、扶養される身では、最後には財政力という越えられない壁がある。
「ただいま」
 わたしは手の甲で額の汗を拭いて、やっと自転車から降りた。
「トマトが冷えてるぞ。今日のはすごくおいしい」
 やめてよねと、わたしは睨むような目つきをする。
 スーツとネクタイがよれよれのTシャツとタオルになっても、パパは相変わらず呑気だ。
「おねーちゃんっ」
 溜め息をついたとき、家の中から弟の裕也が駆けてきた。
「おねーちゃん、見てっ」
 裕也はまだ小学一年生だ。満面の笑みを浮かべた裕也の、その小さな手のひらの上には。
「カベチョロつかまえた」
「ぎゃああっ」
 わたしは叫ぶなり、飛びのいた。手に取っていた鞄は無事だったけれど、自転車が派手な音をたてて倒れた。
「カベチョロって、イモリとヤモリ、どっちの仲間か知ってる?」
「し、知らないわよっ。同じでしょーが、どっちだって」
 後ずさるわたしに、裕也はそれを突き出して、頬を膨らませる。
「違うよう。イモリとヤモリは違うんだって、大地兄ちゃんが言ってたもん」
 そう、裕也はそいつに洗脳されたのだ。最初は、入学したばかりの学校から転校することを猛反対していたのに、そしてカタツムリさえ怖がっているような子だったのに、この変貌ぶりは恐ろしいほどだ。
「あ、大地兄ちゃんっ」
 裕也が声をあげた。そのまま、見て見てと言いながら、走っていく。
「……裏切り者め」
 わたしは吐き捨てて、自転車を起こした。
 結局、今でもここの生活に馴染めないのは、わたしだけだ。

新刊書架
ミルキー・ポピンズ 子爵の恋人 400字詰原稿用紙
約361枚
著者略歴/三重県出身。主婦業のかたわら、十数年ぶりに創作を再開。長篇ロマンス小説を中心に鋭意執筆中。韓国ソウル市在住。
著者HP/「MILKY POPINZのROMANCE工房
「ローズマリーの行方がわかったのだ」サーフォーク子爵は消えた婚約者を追って馬車を駆る。邂逅、そしてすれ違い。二人の愛は成就するのか。19世紀の英国を舞台に繰り広げられるヒストリカルロマンス。
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作品冒頭

 一八七一年 十二月 二十三日

 その日ロンドンは、朝から冷たい霙が降っていた。どんよりした雲間から、重い氷の粒が一つまた一つ、落ちては消えていく。そんな人影もまばらな冬の午後、貴族達が住む邸宅街の一角にある、サーフォーク子爵邸に一人の紳士が訪れた。
 その紳士の訪問の要件は、ごく短時間のうちに済まされた。
「ご苦労だった」サーフォーク子爵、ジェイムズ・レイモンドは、ていねいに挨拶して出ていく弁護士に背後から声をかけた。再び書斎に一人になると、葉巻を取りだし火をつける。それまで無表情だった三十三歳の精悍な顔が陰りを帯び、立ち上る紫煙の向こうに、まるで誰かがいるように目を凝らす。彼は、この一年の間、片時も脳裏から離れなかった一人の女の姿を、心の中で見つめていた。
「ついに、見つけたぞ」
 彼はつぶやき、弁護士が持ってきた報告書に目を落とした。まったく長かった。彼女が突然姿を消してから、後二日でちょうど一年になる。狂ったように彼女の部屋へ駆け込んで、彼女がいなくなったことが事実だと思い知らされた、悪夢のようなあの夜……。それ以来、付きまとう喪失感は、どんなに自らを説得しようとしても、てこでも動きはしなかった。時にはなぜこれほどまでに探し続けるのかと、自嘲しつつ自問することもあった。もう忘れてしまえと自分に命じたことも、一度や二度ではない。
 今尚湧き起こる苦々しさを振り払うように、彼は葉巻をもみ消すと、執事を呼び出した。今日中に旅行の準備を整えるよう言いつける。
「ですが旦那様、この時期にあまり遠出は、いかがかと思われますが。今は特に、天候も道も悪うございますし」
 老執事が困惑気味に言い出すのを目で遮り、子爵はこう繰り返した。
「明朝、一番に出発する」断固とした口調だった。
「ローズマリーの行方がわかったのだ」

 再び一人になった彼の脳裏に、忘れられない一つの情景が蘇る。
 ――真昼時、カフェのある街の片隅から、こちらを食い入るように見つめていた金髪の女。一瞬の衝撃。激情にかられ叫ぶ声を振り切って、たちまち雑踏の中に消え去った細い後姿――。
 それは三月の白い太陽が見せた、束の間の残酷な幻だった。

※作者の都合のため、一時、掲載を中止します。作者のサイトでは閲覧が可能です。

新刊書架
kimica Girl friend 400字詰原稿用紙
約68枚
著者略歴/1981年生まれ。静岡県在住。予定調和を排した独自の世界を追求。詩と小説の境界線を軽やかに舞い越える作風が魅力。
繊細な感受性を持つがゆえに直面する、さまざまな葛藤。女子高生の揺れる心をシャープで澄明な筆致で描く連作小説。詩と小説。絶望と希望。スタイルとテーマの混交が織りなす、新しいタイプの小説が誕生。
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作品冒頭

「三秒数えて目を開けて」

 都が笑うから、私も笑った。
 目を閉じる。瞼に当てられたてのひらは冷たくて、火照った涙を冷やしてくれた。
 空気が動いた。
 風かもしれなかった。
 靴音が遠ざかる。
 都。

「死んじゃ駄目だ」

 いち。
 にぃ。
 さん……

 潰れる音がした。
 一瞬の静寂と無数の悲鳴。
 日常を止める音。
 目を開ける。
 都はいなかった。
 空が青かった。
 輪郭の歪んだ飛行機雲が陽射しを割っていた。
 風はなかった。
 風じゃなかった。
 都はいなかった。
 涙は乾いてた。

 何もなくなった。


新刊書架
添田 健一 みずうみ 400字詰原稿用紙
約185枚
著者敬白/1972年生まれ。読書好き、本バカが高じて、ブックレヴューとオンライン小説のサイト「Moon Light Cafe」を開設。小説の腕前は下手の横好き級。
とあるみずうみでの物語。水底に忽然とあらわれた謎の水死体をめぐる、三尾の魚と湖水の女神の冒険。女神の奏でる琴瑟の音色がひびく。神話と伝説を題材に描かれた二風変わったファンタジー。
※著者インタビューページへ
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作品冒頭


 一 来客

 その男のひとは、わたしたちが暮らしているみずうみの底で、うつぶせに横たわり、眠るような表情で死んでいた。
 右耳を水底に押しあて、両腕を前に投げだして、みずうみのこえに耳を澄ますようにしていた。
 かれが、いつからそこにこうして横たわっているのか、わたしたちのだれもが知らなかった。
 みずうみには、ときおり、びっくりするような珍客がまぎれこんでくるけれども、そのほとんどは派手でうるさい音を立てて、わたしたちをおどろかせて、あばれまわったあげく、みぐるしいすがたをさらして、やがてふくれあがって水面へと浮きあがってゆく。流されてゆく。そういうものである。
 それなのに、このひとはそうではない。みずうみの底に横たわったまま動かない。
 うわさを耳にして、わたしも友と連れだって、見物に出かけた。物見高いわたしたちの仲間がくだんの水死体のまわりに群がっていた。
 そのなかにはわたしの兄もいた。うちのにばんめの兄である。なんだ、おまえも来たのか、という目を向けてくる。
 わたしはうなずいて息を吐く。泡がたちのぼる。
「どうしたの」と兄に寄り添う。友もそれにならう。
「わからないが、めずらしいお客さんさ」
 わたしは目をおおきく開く。
 そのひとはやせていた。頬骨が出ていて、おおきな鼻が高く、彫りの深い顔だちをしている。顔の下半分は硬そうな髯におおわれていて、眉毛もびっくりするほど太く雄大に伸びている。黒い髪の毛はまとめられていない。身にまとっているゆったりとした衣服も長い袖や裾が擦りきれたり、汚れたりしていた。そうした格好をしていても、全身からたちのぼっている気品が、育ちのよさをしめしていた。

新刊書架
黄 秋生 矩形の墓所 400字詰原稿用紙
約35枚
著者敬白/梓さんが準備中のとき、無理を言って添削してもらった作品です。あと何本かストックが溜まったら、自分のサイトを立ち上げて、ネットデビュー! 残酷描写皆無でどこまで恐怖をあおることができるか。この難題に執筆歴2年の著者が挑んだ意欲作。巧みな省略、的確な人物配置、癖のない文体から生まれた、スタイリッシュ・ホラーの佳作。
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作品冒頭

 オートロックなのに、どんな手を使って投げ込むのか、郵便受けには数枚のピンクビラが入っていた。ファミリー向け分譲マンションに、このような需要があるとは思えない。なりふりかまわずというところか。
 人目を気にしながら、五十個もの郵便受けにピンクビラを突っ込んでいく男の姿をふと連想し、私は自嘲めいた呟きをもらした。
「うちに来れば、即採用だぞ」
 私の勤務する中堅広告代理店は、不況対策として昨年度から外注の厳しい見直しをおこなった。広告制作部門だけではなく、営業まで累が及び、休日返上でメーカーの販売応援に担ぎ出される始末だ。社員を増やすかわりにアルバイトをふんだんに使っているため、誰かが監督しなくてはいけない。ピンクビラのポスティングを律儀に果たすような人材がいれば、私の仕事も少しは楽になるだろう。
 エレベーターホールは無人だった。土曜日の午後十時にエレベーターを使用する住人がどれくらいいるだろうか。
 エレベーターの籠室《かごしつ》は最上階の五階に止まっていた。乗場ボタンを押した。スライドドアのガラス窓越しに、黄色い釣合錘《つりあいおもり》が音もなく上がってゆくのが見えた。
 ネクタイを緩め終えたとき、籠室が到着した。籠室の中に人影をみとめ、ネクタイを緩めたのは早計だったかと思ったが、何のことはない、鏡に映った私自身の姿だった。車椅子利用者の安全確認に必要な背面ミラーというやつだ。九人乗りの個室に一人きりのとき、この鏡には落ち着かない気分にさせられる。

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